非言語情報から仮説をたてる〈19〉
「贈物」を豊かにする言葉
可視化情報としてのナズナ
「贈花」や「ブーケ」という言葉の持つ指示表出性=意味すること・さし示すことが、具体表象物としてみれば随分変化をし、多様性に満ちていることは、まさに非言語情報そのものである。「贈花」という言葉のシニフィアン(意味するもの)が具体的に表象されているシニフィエ(意味されるもの)というものとして、歴史的な流れの中で、らせん状に変化を起こしていった結果ということだ。
そして、そのらせん状の変化は常に続いていっている。これまでならば、菊やバラやガーベラなどという固有名詞が持つシニフィアン(意味するもの)の広がり以上のことを、あまり意識するほどのことではなかった。ところが、そのような代表性固有名詞だけですまされていた花束の構成名称が、極めて細分化されていくことになった。以前例であげたシャンペトルスタイルのブーケなどには、たとえばナズナなどが重要構成要素としての花として不可欠になっている。草原にはえているペンペン草のことでしょうと言う人々や、世代も減ってきたのである。あるいは春の七草だといっても、およそ知られていない確率も増えてきている。
見れば「ああこれか」とわかるものも多いし、逆にこれって可愛いよねって言われてみたりもする。限定されたシニフィアン(意味するもの)しかもたない「ナズナ」という固有名詞が、その姿が言語情報から非言語情報になっていくことで、突然価値が変わっていく。らせん状の変化といえる。可視化こそが、「ナズナ」という言葉のシニフィエ(意味されるもの)を拡張していった訳である。
体験蓄積の変化
シャンペトルブーケには是非ものといえる花にカスミ草がある。同じように葉物を組み立てるのによく使われるのにアカシアがある。このような草木はおおよそブーケや、花の楽しみ方という言語情報にはほとんど存在しなかったものだったようだが、アカシアを花素材として扱う専門の花屋さんも、増えてきているくらいだ。
ある意味「贈花」「ブーケ」という言葉のシニフィアン(意味するもの)が多様なシニフィエ(意味されるもの)に至りついたことが、様々な専門的な固有名詞としての花の名前をシニフィアン(意味するもの)としての活動場面を増やしていっていることにもなる。ただ言葉としての認識の蓄積としてというよりも、非言語情報としての価値と体験蓄積が、らせんを形成していっていることになる。このような専門性の高い固有名詞は、この価値を伝達、共有するためにこそ使われている言葉のシニフィアン(意味するもの)そのものであるが、なかなか覚えきれないところもあるし、「あれ、これ」「そう、そう」で済ませてしまっているところもある。だから、非言語情報、可視化情報がたよりになる訳だが、ここでの固有名詞としてのシニフィアン(意味するもの)は重大な価値があるといえる。
また、共有・共感、「あれ、これ」という情報伝達が可能なのは、その両者の間に価値の共有性があるからだ。つまり、自分自身がその花々の持つ価値を愛しており、それを「贈花」ということで贈られる相手にも価値の共有性が予感か確認されていることを前提としていることになっている。
贈るということ、贈られるということを中心に考えられれば、お互いに共有することのできる価値が前提にある、あるいはきっと共感できるであろうという想いや予感がある。きっと共有、共感したいなあという欲求がある。これらを言葉の束にすることはとても困難なことであるが、花束にすることはできる。だから、可視化された価値としてのシャンペトルスタイルブーケなのか、あるいはペンペン草やカスミ草やアカシアといった専門度の高い固有名詞が大事になってくる。逆にいえば、中間的な言葉(おおむね普段使われている言葉はほとんどこれにあたる)が意味をなさなくなっている。
“半夏生”の共感性
別の言い方をすれば「和風のお庭が素敵ですね」ということでは、このお庭の価値、より強く言えば体験価値を共感、共有したことにはならないといっていい。半夏生の葉に白い斑がきれいに入っていることこそが、たとえばこの庭の価値ということになる。
「もう10年以上経つのですが、この年初めて半夏生が白くなりまして‥」ということで、贈りたい風景、贈られたい風景は一致したことになる。
半夏生はシニフィアン(意味するもの)でいえば、単なる6月下旬に伸びる草木に過ぎないが、この庭をはさんだ人々の間には、共通のシニフィエ(意味されるもの)があったりする。たとえば、似たような茶花を育てている中に梅雨時の楽しみとしての半夏生があったりする、といった体験蓄積が共有されていたりする。あるいはその暮らしに憧れていたりするといったことがある。
このような共有できる体験価値といったものがあってこそ、半夏生が入った小さな花束は、本当に豊かな贈り物、「贈花」ということになるのではないか。つまり、シャンペトルスタイルブーケの和風スタイルということになる。
ここで重要なことは、贈ることと、贈られること、つまり「贈る人」と「贈られる人」というものは、ほぼ同一の価値観を保持しているといっていいのだ。
同じような体験を何度も繰返しているし、その共感がお互いにある、あるいは体験価値の蓄積があるからこそ「贈る」という暮らしにつながるといっていい。「贈る」人は、いつでも「贈られる」人でもあるのだ。つまりそのような価値や、体験蓄積を保持されている人なので「贈ったりもらったり」というらせん状の暮らしを持っているのだ。
そして「贈る」人が、「贈ってみたいなあ」と思う人として次に出現するのが、この「贈ったりもらったり」、つまり「あげたりもらったり」、あげもらを予感させる人である。一種の恋文のようなものかもしれない。無言で贈られていった「もの」、つまり「贈物」には、どんな一言がつけられているといいのだろうか。非言語情報に加えて、「言語」の意味と力を考えるとすれば、ここだけである。
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