非言語情報から仮説をたてる〈15〉
非言語情報はシニフィアンの宝庫
「桃の枝」は贈り物なのか?
「2度目の月命日にお花を贈りました。少し早い春を感じてください」という短いメールの翌日に、そのお花が届いた。スリムな縦型の包装は何だろうと思った。開けてみるとまだつぼみ状態の桃の枝物であった。送り主の人柄が思い浮かんで、思わずニヤリとしてしまった。
命日という意味を持った日の贈花ということからは、かなり常識破りをしているといっていい。「花を贈る」「命日」という言語からは大きく逸脱している気がしている。つまり、この状況を背景にした「花」という言語が持つ意味性と実際はズレが生じている気がするのだ。
つまり「贈花」という言語の持つ「意味するもの」、「指示表出性」、私流の解釈で使っている「シニフィアン(指すもの)」ということと、そこで現前化された実際の「贈花」が持つ「意味されるもの」、「自己表出性」、これも私流の「シニフィエ(指されるもの)」ということが大きく逸脱している典型といえる。
逆にいえばこの「桃の枝」という言語は、それを贈った側の意識の中での、言語価値、「意味されるもの」、「自己表出性」、「シニフィエ(指されるもの)」の中においては、最大の敬意がこめられたものになっているといえる。
この連載で花の例をたくさんあげてきたが、私事ではあるが昨年末、家内を亡くしたことで多くの花をいただくことになった訳である。儀礼としての「贈花」ということを考えてみて、「お花」という言語のもつ「シニフィアン(指すもの)」と「シニフィエ(指されるもの)」の分裂と多様化に具体的に驚いたという経緯があった。
シニアの自由さ
霊前、仏前にふさわしいとされてきていた花はほとんどなかったし、こういう儀礼では王道ともいうべき胡蝶蘭は1つだけだった。もちろん、贈る側と贈られる側の関係性や価値観の共有というところが反映している結果ではあるが、以前に書いたようにシャンペトルスタイルのブーケが多く、「贈花」という「シニフィアン(指すもの)」が想定している常識から、その「シニフィエ(指されるもの)」は贈り主の側で圧倒的に多様化していたのだ。共に70代の方々なので、シニアたちの方が社会の常識や規範といったつまらない決め事から自由であることがよくわかった。そしてその大半が女性たちであった。ある意味、社会規範に固定化された人生を歩んできた男性とは違って、その自由さは特筆すべきと思われた。つまり、シニアの男と女で使っている言語というものが異なっているのではないか。恐らく男の使う「言語」の大半は、「シニフィアン(指すもの)」と「シニフィエ(指されるもの)」が常識規範の中で一致しており、そこまで多様化していないのであろう。
それに対して女性たちは「シニフィアン(指すもの)」と「シニフィエ(指されるもの)」の勝手気ままな分裂、多様化に対して自由なのだろう。恐らく彼女たちが使う「花」「贈花」「ブーケ」というものの多様性は今回実態として理解ができた気がする。この「シニフィアン(指すもの)」と「シニフィエ(指されるもの)」の多様な分裂は、時として「何を言っているのかよくわからない」ということになりかねないところもあるが。
非言語情報の価値
その分裂、多様化をとらえるポイントはたった1つその非言語情報にあることは前回も述べた通りだ。今回の例でもあげたように命日とか贈花という言葉が持つ「シニフィアン(指すもの)」は、狭い社会規範に固定されたままになっている気がする。ところが、その贈花という言語の実際の「シニフィエ(指されるもの)」としての実像は「桃の枝」ということであった。逆をたどれば「桃の枝」という言語が持つ「自己表出性」としての価値は命日の贈り物としての意味があることが発見できるのだ。つまり、「桃の枝」には人の悲しみや慈しみに寄りそう癒しという「シニフィアン(指すもの)」が生まれでているのかもしれない。
暮らしの変化や価値観の変化を探るための調査というものは、ほぼ言語というものを通して行われている。これは言語の持つ「シニフィアン(指すもの)」と「シニフィエ(指されるもの)」の一致、あるいは社会関係の差量を背景にした最低限の共有を前提としている。ところが、これが解体していっていることこそが、暮らしや価値観の変化に相違ないのに、この「シニフィアン(指すもの)」と「シニフィエ(指されるもの)」の分裂、多様化という視点を、その間をブリッジする唯一の情報である非言語情報をうまく取り扱いきれてないのが現実だ。
たとえば命日のために贈られてきた桃の枝はもう満開を迎えている。それが「桃の枝」の「シニフィエ(指されるもの)」そのものである。
好きだって一回打って消す
ここまで取りあつかってきた「言語」というものは、大概話し言葉に近いポジションであった。「月命日に花を贈ります」もメールに書かれているように基本的には話し言葉にあたる。
話し言葉というポジションにいる言語たちは、書き言葉より「シニフィアン(指すもの)」と「シニフィエ(指されるもの)」の分裂が激しくなる。加えて話されなかったことが言語としての「シニフィエ(指されるもの)」を多様に構成することになる。調査というものも、話し言葉が中心となることが多い。つまり話されたことだけを対象にした調査ではこの多彩な「シニフィエ(指されるもの)」をとらえることができなくなる。発言されたことしか念頭におかれなくなる。困ったものだ。
おもしろいエッセイがあったので1つご紹介しておく。
『僕の不幸を短歌にしてみました』(幻冬舎plus)の2/29公開の『また言えなかった「好きです」のひとこと・・・・』。
〝好きだって一回打ってダメだって思って消しておはようって送る〟
この短歌をめぐっての心の動きが見事に書かれている。つまり話されてなかったことという言語のあり方に対して、私たちはどのように感度を研ぎすませばよいのかということになる。
これも非言語情報といえるのだ。
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