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非言語情報から仮説をたてる〈18〉
「贈るもの」と「贈られるもの」

「らせん状」に変化する

この連載の13回で具体的に例示したように、 儀礼としての「花を贈る」という言葉がさし示している「花束」(ブーケ)が、伝統的なイメージとは大きくズレていっている。仏事や命日という機会に儀礼として贈られているお花という具体的な物体は、当然のように一般で贈られているであろうイメージからは大きくズレていっているのが現在の実体である。ここで贈られた花束はいわゆる仏花や胡蝶蘭のような儀礼花は少数派であり、シャンペトルスタイルに代表される、もっとカジュアルなものが多数派であった。

「贈花」という言葉がもつ一般的なシニフィアン(指すもの、意味するもの)が崩れ、多様なシニフィエ(指されるもの、意味されるもの)に拡大したり、分裂していっているのだ。むしろ変化していっているシニフィエの具体イメージの方が、「贈花」というものの新しいシニフィアンに成り始めていっているといっていい。この変化はらせん状に回転していっており、円型だったものがたとえば正方形に様変わりしたというようなものではない。総体でみれば「花」というもののうちに入ってはいるが、その構成する花々の種類が変化していっているということだ。

上からみれば、らせんを上から見るように円型であることからは逸脱してはいないが、垂直にみれば長方形の底辺と上辺のように大きく開いているといえる。

このように言葉のもつシニフィアンという底辺が、シニフィエの拡大という時間の変化を受けて、やがてそれが次のシニフィアンに成り続けていく、らせん連動体のようなものである。言葉だけでみれば「贈花」ということで変化は見逃してしまうが、時間軸を入れて垂直にみれば変化がわかる。ただ、これは非言語情報の蓄積としてしか把握することができないのだ。

受け取る側の視点

らせんの一番底をみれば、古典的でオーソドックスな贈答品としての形式をとどめているだけにすぎない。もはやそれでは単に「贈るもの」としてのみ形はとどめているが、「贈られるもの」としての新しい価値には到達できない。例えば、有名百貨店の包装紙や掛紙がかかっているだけの古くさいものになってしまうのだ。それよりも「贈られたもの」として、受け取ることになる人の価値にフィットすることが、らせん運動の上部の円形に近づいていくことになる。その典型的な変化が儀礼としての「花束」に現れているのだ。らせん運動の垂直に変化していくベクトルは、時間の変化と共に蓄積していった「体験価値」が生みだしていったものである。

贈る人はこの変化を感じとりながら「贈るもの」を変えていく。贈る人の都合ではなく、「贈られるもの」を受けとる「贈られる人」の側が主人公になっていくのだ。「花束」は明らかに「贈る人」の都合で決められた「贈るもの」ではなく「贈られるもの」として、「贈られる人」の都合に価値が移行していった例だろう。

花であれば、受け取る人の趣味や価値感に近いものが喜ばれる。つまり贈る人と贈られる人の価値感が一致したものとして「贈るもの」と「贈られるもの」が合致していることである。

これが成り立てば、「贈られるもの」は受け手の感動と満足につながることになる。ここで大切なポイントは、贈る人が贈ることで消費生活行動が完結しているのではなく、受け手が「贈られたもの」に感動、満足することで、この「体験価値」がらせんをまた垂直方向に回転させていくことになる。「花を贈る」というマーケットは、贈られた人の中での「体験価値」を通して、次のマーケットへ つながっていくことになる。もちろん、贈り手の元に受け手からの感謝という形での生活行動を生みだすことで贈り手にも戻ってくるだろうし、同じようなシチュエーションを通して「贈るもの」を吟味することになる。ここに情報という付加価値を届けることができれば、最も的確なリーチを広げていくことになる。

マーケティング的な言い方をすれば、贈与というものの価値が高ければ高いほど「返礼」の価値が変わり、さらに別の贈与というマーケットを形成していくという、らせんの構造である。これは花というものに限ったことではない。顧客満足という「体験価値」をお届けすることを通して顧客開拓していくことになるからだ。

「あげたりもらったり」のらせん

前回ご紹介した70代シングルシニアの男性の例で言えば、この体験価値を受け取ったことを通じて、新たな花の顧客が生み出されたことになる。儀礼としての「贈られるもの」は、この男性に対してたった一回の接点に過ぎなかったかも知れないが、この体験が新たな接点を生み出すことになったのである。

また、乾燥花(ドライフラワー)や観葉植物を「いやし」ということで暮らしに取り入れている 30代子育てママは、「贈るもの」と「贈られるもの」の連鎖を日常の暮らしの中で繰返している。私はこのような暮らしのスタイルを「あげもら」志向と呼んでいるが、ちょっとしたことでいろいろな「あげたりもらったり」を日常生活の中に取り込んでいる。

一つ例をご紹介しよう。以下の写真は、ある縁のつながりのある先輩女性から、時々贈られてくる自宅生産の旬の野菜である。

野菜を贈った彼女は、この受けとってくれる30代ママが料理好きで料理上手だということを熟知した上での「あげもら」なのである。「贈るもの」には、それが受け手の暮らしにとって「贈られるもの」としての価値と感動につながることがわかった上での行為なので、この「あげもら」の 連鎖は迷惑にならずに続いていく。これもらせん運動のように続いていく。

このように「あげもら」馴れしている彼女はお返しも含めて「贈るもの」の引き出しを常に持っている。

この【ちょっとお返し用のクッキー】は、昔の料理仲間がカジュアルに作っているもので、何かにつけて「贈るもの」である。この手作りの「贈られるもの」には、当然の情報や物語の付加価値がついている。「贈るもの」は同時に「贈られるもの」だという視点があるだけで、お互いの満足感が 高くなっていく。「贈る」というシニフィアン(意味するもの)がシニフィエ(意味されるもの)として多様化、拡大していき、やがてそれが新しいシニフィアンを創造していくことになっている。

このらせん運動のような発展は、非言語情報を追跡していくことでしか得られない妙味だといっていいだろう。

著者プロフィール

マーケティングプロデューサー 辻中 俊樹(つじなか としき)プロフィール画像
マーケティングプロデューサー 辻中 俊樹(つじなか としき)
青山学院大学文学部卒。日本能率協会などで雑誌編集者を経て、マーケティングプロデューサーとして現在に至る。
暮らし探索のための生活日記調査を開発、<n=1>という定性アプローチを得意とする。
インテージクオリスが運営するYouTube”Marke-Tipsちゃんねる”でも、
生活者視点、n=1視点での気づきを語っている。
代表的な著作としては、
「団塊ジュニア――15世代白書」(誠文堂新光社) 
「母系消費」(同友館)
「団塊が電車を降りる日」(東急エージェンシー)
「マーケティングの嘘」(新潮新書)
最新刊は「米を洗う」(2022年3月 幻冬舎)
など編著書は多数。

青山学院大学文学部卒。日本能率協会などで雑誌編集者を経て、マーケティングプロデューサーとして現在に至る。
暮らし探索のための生活日記調査を開発、<n=1>という定性アプローチを得意とする。
インテージクオリスが運営するYouTube”Marke-Tipsちゃんねる”でも、
生活者視点、n=1視点での気づきを語っている。
代表的な著作としては、
「団塊ジュニア――15世代白書」(誠文堂新光社) 
「母系消費」(同友館)
「団塊が電車を降りる日」(東急エージェンシー)
「マーケティングの嘘」(新潮新書)
最新刊は「米を洗う」(2022年3月 幻冬舎)
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