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非言語情報から仮説をたてる〈23〉
火野正平と自転車

『こころたび』というシニフィアン

「非言語情報から仮説をたてる」テーマに連載をしている今回の記事では、「歌詞」から見える非言語情報について触れようと思う。

「誰だってあるんだろう こころの奥に 宝ものの地図 大切な場所へ 小さな頃は毎日が
不思議の世界で だんだん顔を変えていく雲を 追いかけて走った 手のひらに揺れる木漏れ
日は 太陽のかけら 土の匂いがした それはきっと宝物・・・・」『こころたび/池田綾子』

特に何の変哲もない言葉の一群である。言葉が「意味するもの」=(シニフィアン)だけで構成された表現といえる。いわゆるそれぞれの解釈の広がりを持つ「意味されるもの」=(シニフィエ)への拡張が極小だということができる。つまり意味の伝達、シニフィアンとしては過不足なく充足されているといっていい。その意味でいえばシニフィエが欠落した面白みに欠ける言葉たちともいえる。ある意味、芸術的表現、言葉の持つ広がりという点でいえば、それ以上でもそれ以下でもない。

しいてあげるとするならば、最後の方に出てくる「手のひらに拡がる木漏れ日は 太陽のかけら 土のにおいがした」という箇所かもしれない。シニフィアンをこえて、この言葉群を表現した人にとって木漏れ日から太陽のかけらを想起し、「土の匂いがした」というシニフィエが心にあることがわかる。そんなに複雑なシニフィエではないし、太陽のかけらと土の匂いというメタファーが連続しているということになる。言葉のもつシニフィアンからシニフィエへの想像をこえた広がりが、それぞれの読み手の感動を生み出すという言葉の持つ価値の構造からいって、これらの一群の言葉たちは、あえて紹介するほどのことではない。ごくありきたりのシニフィアンを列挙したにすぎないともいえる。

ところが、この言葉たちは大きな感動を生みだしている。少なくとも私にはそうであり、ある種の人たちの感動を呼び起こしていることだけは間違いない。

メロディの持つ会話性

そのヒントをあげておくならば、この言葉群は歌詞である。歌詞というものはなぜかシニフィアンからシニフィエへの拡張性の低いものが多いといえる。なのに想像性の圧倒的な広がりを持つことになる。この歌詞は池田綾子の「こころたび」から抜いたものだが、NHKBSで放送をしていた「にっぽん縦断こころ旅」のタイトルソングである。このタイトルソングを聴くと、つい最近亡くなった火野正平のことと共にあふれる涙をおさえられないのは私だけではなさそうである。

ここに紹介した言葉群はシニフィアンとしては創造性の世界である。シニフィエの拡張が単調ではあるのに、圧倒的な感動の世界を広げていく背景はここにある。まずシニフィアンとして単調さの割には、むしろ単調であるからこそ別のシニフィエの世界を生みだしていくのは、それが歌詞だからであるからだ。つまり、メロディが単調な歌詞としての言葉に圧倒的なシニフィエを生みだしていくことになるのだ。シニフィアンとしての言葉の持つ構造をこえて、別種のシニフィエとしての価値を広げていくといったところに、歌詞としての意味、メロディが作り出す全く別のシニフィエの世界があるのだ。

まず冒頭紹介した「こころたび」の歌詞という言葉群は、メロディを持つことで全く別のステージのシニフィエを獲得しているということになる。ここまでは歌詞という言葉群が作りだすシニフィアンからシニフィエの圧倒的な広がりの背景である。同じシニフィアンを持つ言葉でありながら、メロディという別の表現フェーズを持つことで全く異種の、あるいは多種なシニフィエを感じとることができることになる。たとえば音楽でなくとも、書き言葉ではなく、話し言葉には実はこの変換の構造があるといえる。会話、インタビューなどで話される言葉には、その言語が固有に持つシニフィエを獲得し、むしろそこが伝達という点でいえば、シニフィアンそのものを作りだしてしまうともいえるのだ。ちなみに現代的にいえばSNSの世界が持つ言葉とコミュニケーションの構造は変化しつつあるといっていいのだ。

肉体という非言語情報

さらに追加していえば、この「こころたび」のメロディと歌詞が流れてきた途端に、テレビ映像としての「こころたび」が想起されることになる。「誰だってあるんだろう・・・」という言葉、つまりそのシニフィアンと接点を持ったとたん、膨大な別のシニフィエを広げていくことになる。ファン的な言い方をすれば坂道を息を切らして上がっていく火野正平の自転車をこぐ後姿であり、旅の終わりに「心の風景」と出会いながら、ぼそぼそと読む視聴者からお手紙の言葉であり、それは言葉の意味の流れというより、その手紙の文字群の持つシニフィアンをはるかにこえた、別のシニフィエといっていい。

別の言い方をすればここでの言葉が形成しているはずのシニフィエは、もう火野正平というキャラクターの持つ可視化情報に転換されているといっていい。お手紙の持つ言葉のシニフィアンはどこかに消滅していき、火野正平の持つ可視化情報、つまり非言語情報に転換して価値を形成していくことになるのだ。 ここでは火野正平のボソボソとした発語こそが、非言語情報としての全体としての価値を作りだしていっていることになる。特筆するような名所の風景が紹介されている訳ではなく、火野正平と自転車が一体になってあえいでいる息づかいこそがシニフィエになっているといっていい。むしろ明確なシニフィアンが消滅していることにこそ意味がある。非言語情報を可視化情報として見ていくことのポイントである。

火野正平は俳優ではあるが、つまり非言語情報を可視化するプロであるが、この番組での火野正平は、その極地を開いたといえる。このことはまた改めて述べるつもりだ。つまり非言語情報というものの本質の表現がなされているからだ。「こころたび」という言葉群を聴いただけでそれに出会うことがわかる。

言葉の持つシニフィアンとシニフィエの構造と、それを可視化情報として重層化させた番組であったが、火野正平の才能が見せてくれたことだったが、似たような表現様式に絵本というものがある。同じ時期に詩人であり絵本作家である谷川俊太郎が亡くなった。「こころたび」と同じような表現の刺激を持った「ぼく」が絶筆に近いものになった。

このこともよく考えるべきテーマだ。

著者プロフィール

マーケティングプロデューサー 辻中 俊樹(つじなか としき)プロフィール画像
マーケティングプロデューサー 辻中 俊樹(つじなか としき)
青山学院大学文学部卒。日本能率協会などで雑誌編集者を経て、マーケティングプロデューサーとして現在に至る。
暮らし探索のための生活日記調査を開発、<n=1>という定性アプローチを得意とする。
代表的な著作としては、
「団塊ジュニア――15世代白書」(誠文堂新光社) 
「母系消費」(同友館)
「団塊が電車を降りる日」(東急エージェンシー)
「マーケティングの嘘」(新潮新書)
最新刊は「米を洗う」(2022年3月 幻冬舎)
など編著書は多数。

青山学院大学文学部卒。日本能率協会などで雑誌編集者を経て、マーケティングプロデューサーとして現在に至る。
暮らし探索のための生活日記調査を開発、<n=1>という定性アプローチを得意とする。
代表的な著作としては、
「団塊ジュニア――15世代白書」(誠文堂新光社) 
「母系消費」(同友館)
「団塊が電車を降りる日」(東急エージェンシー)
「マーケティングの嘘」(新潮新書)
最新刊は「米を洗う」(2022年3月 幻冬舎)
など編著書は多数。

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