非言語情報から仮説をたてる〈24〉
マーケティングにどうつなげるか
表現の重層化を解く
表現の重層化を解く
前回は『こころたび』という歌詞を紹介した。「誰だってあるんだろう こころの奥に宝ものの地図 大切な場所へ・・・・」。文章や文字情報としてだけみれば、非常にシンプルなことの伝達、表現につきるといっていい。言葉を構成する「意味するもの=シニフィアン」に主眼がおかれ、「意味されるもの=シニフィエ」の要素が言葉の表現としては薄かったといっていい。そもそも言葉の表現は、「意味するもの=シニフィアン」と「意味されるもの=シニフィエ」が重層化しているものである。とりわけ、表現にこめられたシニフィアン(単なる意味の伝達)を超えて、全く別の意味を表象するシニフィエに拡張していくものだ。
その意味では、前回も述べたようにこの「こころたび」という言語表現は、シニフィアンを逸脱することなく、シニフィエが想像的に拡張していくところは少ない。ただし、「こころ旅」という番組のタイトルミュージックになることで、全く新しい価値が生みだされている。その価値が想像的なシニフィエになっているといっていい。もっといえば、この新しい価値としてのシニフィエは「こころ旅」の映像そのものだということができる。
ひたすら自転車をこぎ続ける火野正平の後姿、視聴者から送られてきたお便りという「シニフィアン」とビジュアルそのものが、シニフィエとしての価値を表象している。いい方を変えれば、言語のもつシニフィエは、ある映像情報であり、これまでも述べてきたように非言語情報という言い方が正解である気がする。
生活の中で成立しているコミュニケーションというものは、言語によって基本的にやり取りされているとするならば、発語(無言、ひとり言も含めて)にはシニフィアン(意味すること)という側面とシニフィエ(意味されること)という側面が重層化していることになる。この側面はどちらかにより力点がかかり、そのコミュニケーションの価値がかわったりする。そしてシニフィエの側面はいってみれば、言語として理解(シニフィアンとして)するよりも非言語情報、映像情報的に理解することが、より正解に近いといえる。
つまり、生活の様々な側面を理解するためには、言語のもつシニフィアンの側面とシニフィエの側面と、それらがより非言語化してしまった可視化された情報を、重層化して蓄積し、みておくことが必要であることは、すでに述べてきたことだ。
言語、「詩」、「絵本」
言語のもつシニフィアンとシニフィエの重層化に加えて、非言語情報、可視化情報が混合されて、表現、コミュニケーションが成立していることになるが、これの典型的表現はたとえば、絵本ということになる。前回紹介した谷川俊太郎の絵本はその例だ。それぞれが、よりわかりやすくするための複合化の表現の組合せである場合はわかりやすい。お互いの表現がうまくサポートできているような表現の仕方である。だがそれぞれが別の意図を持って重層化された表現になればなるほど難解になる。
前回紹介した『ぼく』という絵本は、2022年に出版されたもので、谷川俊太郎にとってはほぼ絶筆に近いものだ。絵本として詩の表現と絵の表現の合作には相当時間のかけられたものではある。絵本とはいえその地の文章は詩である。詩はとりわけシニフィアンとシニフィエの分裂と重層化の激しいものである。加えて、それとは異なった時点で書かれた絵であることから、重層化が相当激しいものになっている。ある意味、美しいけれど難解である。
「ぼくは しんだ
じぶんで しんだ
こわくなかった
いたくなかった
おかあさん ごめんなさい
ジェイ さようなら
・・・・・・」
「生は自分一人だけのかけがえのない現実
死もそれを断ち切ることは出来ない」
詩としての表現でみれば、テーマは死であり子供の自死である。テーマとしてみればシリアスであり、シニフィアン(意味するもの)をそのまま素直に読むことであり、あまりシニフィエとしての拡張を期待することはできそうにもない。いわば書かれている通りということになるが、期待があるとすればいわば反語としての世界を探してみるということになる。もし、この反語の世界を探し出していくことにするとすれば、その時の重層的な表現ポイントは「絵」という表現になる。ブルーの瞳の少年が主人公であり、反語としての表現の複雑化をすることで、読者に自由を与えていることになる。だがその意味でシニフィアンとシニフィエ、非言語情報(=絵)を、このように複雑化させなくてはならないのだろうか。表現としての実験ということになるが、シンプルな解釈が難しくなっている。皆さんはどのように感じとるだろうか。
同じような主題、表現のモチーフだったとすれば、具体的な「絵」という表現がなくて、詩という言語表現だけで十分に伝わることがあるともいえる。
同じ晩年の谷川俊太郎の詩の世界に、同じような主題をうまく展開しているものがある。表現は詩の形式をとっているが、伊藤比呂美との対談の中での応答の1つである。
「比呂美さん
車椅子の上から眺めていると
世間は速くも遅くもなく
丁度いいリズムで時を刻んでいる
ように見えますが
これは生きるのに飽きた老人の
錯覚かもしれない
今一番したいことは何ですか?
私は立ち上がって歩きたい!
俊」
(『ららら星のかなた』谷川俊太郎/伊藤比呂美)
マーケティングとしての「気づき」
最初の6行は、ここに表現された言語にとっては典型的なシニフィアンに当たるということができる。言語としての意味すること(=シニフィアン)を整理すると、とりわけ意味ということではこれに尽きる。「最近はどんなことを考えていますか?どんなことを感じることが多いですか?」こんな質問や思いに対して、どのように考え、答えることが多いだろうか。
それに対してまともに、まっ正直に答えるとするならば、最初の6行のようになってしまうような気がする。シニフィアンの世界から言葉としても逸脱、拡張することがないといえる。私からみれば最後の2行が本当の意味でのこの表現の世界に対する解、意味されるもの(=シニフィエ)そのものだといえる。つまり本質的な表現、コミュニケーションの世界だということになる。
そして加えて車椅子の上からみた世界が可視化されていることが、情報の重層化、つまり非言語情報との複合化によって、生活というものの本質を探り出すことになる。これがマーケティングでいう生活の本質を探り出し、気づきを作りだすことに他ならないのだ。 次回は具体的にその気づきにアプローチすることにしてみよう。
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