非言語情報から仮説をたてる〈5〉
カジュアル【エスノグラフィー】のすすめ
パリで「おにぎり」がブーム?
暮らしを「可視化」した情報から、どのようにして「気づき」を発見していくのかということについてよく質問をうけることがある。何に「気づき」を感じとればいいのだろうかということである。
これについての初手の解は、よく使っている言葉とのズレやギャップをみつけだしていくことにつきる。これまでも述べてきたように、「ごはん」という言葉が持っている定義というものと、実際の暮らしの中に出現している「ごはん」というもののシーンとの相関をみつけることである。
たとえば、「お茶わんごはん」と「脱お茶わんごはん」の差異、ズレを見つけだしていくことである。もっといえば、「お茶わんごはん」と「おにぎり」との間には何が定義として差異やズレが存在しているのかといったことでもある。
遠足に持っていくものやピクニックで食べられているごはんのことをおにぎりと定義づけていても、実際の暮らしとはズレが広がっている。こんなところが発想、「気づき」の初手といっていい。
そういえば、今パリで「おにぎり」がトレンドになっているという。アルファベットで「onigiri」と表記されている。日本のすしとは似て非なるすしがブームであるように、「おにぎり」という私たちが使っている言葉の定義とは異なったものだ。むしろ言葉としていえば「おにぎらず」に近いといえる。ソーセージのチーズソテーやラタトゥイユなどが具材としてはさまれ、にぎるということで成形されている。プチバゲットサンドにも近いけれど、やはり白いごはんが素材なので「onigiri」ということになる。これが日本円で1個500円以上で売られている。価値の転換、拡張というものはこんなところにあるようだ。
「好奇心」と「嗅覚」
言葉の定義の変更、ズレ、拡張、それが「気づき」のポイントなのである。ある種、マーケターが本来持つべきスキルでありセンスであるといえるが、どんどん失われていっているのかもしれない。
たしか、アインシュタインの辞世の句に近い形で書かれた「自伝ノート」には、「好奇心」と「嗅覚」こそが発想や「気づき」の原点であると書かれていた記憶がある。言葉と具体物の定義のズレをみつけようとする「好奇心」が失われ、何かおかしいなと感じる「嗅覚」を排除してきたツケがまわっているのかもしれない。効率の悪いプロセスをできるだけ避け、テンプレートやフォーマットに乗せることで処理するフローが身につき過ぎると、そうなってしまう。
このマーケターが不可欠としているセンスやスキルは、ごく当たり前の日常生活の一コマ一コマで磨かれていくものなのである。必要なのは半歩か一歩の「好奇心」だ。一つの例題をあげておく。たとえば「書く」という言葉に集約されている行為、生活行動は一体どうなっているのだろう。そんなことは普段は特に意識していることではないが、ちょっとした情報を目にすると「好奇心」が湧いてきたりするものだ。
ここにあげたのは小学5年生になった少女の書いたマンガである。偶然視野に入ったりすることもあるが、私たちは訓練もかねてこのような何げない「可視情報」をできるだけ集め観察するようにしている。何も「気づかない」ことも多々あるし、偶然「気づき」の嗅覚が動くこともある。
「書く」ということを「可視化」
現在社会の中で「書く」という行為はどうなっているのか。もはや「書く」ということは消滅していっているのか。いやいやこれはマンガなので「描く」ということか。彼女は一体何を表現、伝えようとしているのだろうか。伝える?いや、これはむしろ「ヒトリゴト」なのだろうか。うさぎと少女を主人公にしたこのショートストーリーは何かの自己表現になるのだろうか。日常的にデジタルディスプレイを目の前にして、様々なデジタルツールにかこまれている彼女にとって、手描きでこれが書かれたこと、描かれたことはどんなことなのだろうか。手書きの意味とは・・。たとえば、どんな道具を使っているのか、鉛筆を使っているのか、ボールペンなのか、マーカーなのかといった「好奇心」の対象がどんどん広がっていくことになる。
この「好奇心」が「非言語情報から仮説をたてる」ポイントということになる。私たちは、ここまでのプロセスを【ランダムエスノグラフィ】という呼び方をしている。偶然も含めて可視化情報と出会い「気づき」を作りだしていくことである。そしてこの「好奇心」を充足させていくために、この少女がどのような筆記用具や道具立てを使っているのかなど、さらに突っこんで把握していくことになる。「どんな道具をいつも使っているのか?」ということで、さらに「可視情報」を集めることを行えば、これは【ストーリーエスノグラフィ】になる。
冗長性の中のマーケットとは
案の定といってもいいだろうが、多種多様な「書く」ツールにかこまれていることがわかる。あり余る「書く」ことが可能なツールを所持している。書かれる対象としての紙類も多種多様である。加えてディスプレイではなくアナログの紙に描かれたのは何故なのだろうか。そしてアナログで描かれたマンガという表現物をスマホでパチリ、グループLINEでシェアするという行為まで含めて「書く」という暮らしの流れになっているといえる。
「書く」ということを実現するためにツール、道具立ては余剰であり、冗長性(リダンダンシー)にあふれている。これらの冗長そのものの道具の中から、彼女にとってマイフェイバリットは生みだされていくのだろうか。それはどのような機能が実現していくものなのか、あるいは情緒性なのだろうか。ある意味、マーケットという機会を考えるにあたっての仮説のありかに当たることになったのである。
さて、これを海外の例を考えてみよう。たとえばべトナムではどのような出現の仕方がありうるのだろうか。恐らく道具の冗長性は欠落しているかもしれない。深く考えるにはここで【グローバルエスノグラフィ】の視点を入れることになるだろうし、世代の違いを追うこともできる。
私は、多くのマーケターに、このように想像する好奇心を失わず、まずはカジュアルに、日常の中のエスノグラフィを見つけにいき、体験してほしいと願っている。
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