非言語情報から仮説をたてる〈14〉
「意味されるもの」の多様性をとらえる
言語の崩壊の先へ
言語には2つの側面がある。1つは「指示表出性」というもので、それが何を「指している」かであり「意味するもの」ということになる。前回の例でいえば「花」、あるいは「ブーケ」、「贈花」だ。さらに過去の回でいえば「掃除」あるいは「掃除機」であり、「ミネラルウォーター」ということである。そこには一定の規範に基づいた「指している」こと、「意味するもの」が対応している。
一定の規範というものは社会関係の中に存在していることから、暮らしの動向を如実に反映することになる。「ギフトブーケ」や「贈花」ということで「意味するもの」、つまり「指示表出性」を考えてみれば、ある暮らし方のパターンによって自ずとかたちは決まってくることになる。ところが、この「指示表出性」としての「花」という言語が実際に「指される」ことになった「花」の具体物は一定、あるいは社会規範の常識というものからはズレることが多くなってきている。
これは言語のもつもう1つの側面である「自己表出性」、つまりその言語によって「指されるもの」、「意味されるもの」というものが一義的でなくなっていることになる。むしろこれが大きく多様性に向かっているのだ。言語のもつ「指示表出性」と「自己表出性」の対応が多様になっているということは、ある意味言語の崩壊を促進しているということにもなる。
ぺんぺん草とマスマーケティング
前回例題にあげた実際に私がいただくことになった「ギフトブーケ」はその後もさらに増えていき、その多様性、つまり儀礼としての既存価値にはおさまりそうにないものが本当に多い。たとえば、ナズナやエノコログサとかすみ草がベースになり、これにミモザやスイートピーなどの旬の小花が組み合わされたものが多かった。
いわゆる究極のシャンペトルスタイルということになる訳だが、たとえばナズナ、これは言葉をかえればぺんぺん草だし、エノコログサは猫じゃらしであり、野原や道端に生えている雑草といっていい。野草という言い方にしておいた方がいいように「花束」、それを組立てる「花」という言語のもつ「指示表出性」からはもはや完全に逸脱したものになる。
このようにして構成された特有のブーケは「花束」という言語のもつ「自己表出性」「意味されるもの」としての価値こそが強調されているといっていい。ここには関係性というポイントがある。「贈花」には贈る側と贈られる側の関係というもの如実に反映されることになる。この関係性の中には共通の嗜好や趣味というものが影響を与えている。
「花」という言語のもつ「指示表出性」の常識からはもっとも遠いところにある草花こそが、「花」というものの「自己表出性」そのものであるという嗜好の変化の一致がなければ、この関係性はなり立たない。ぺんぺん草や猫じゃらしなどの雑草を「贈花」されてもまるで価値を感じないことでは困るのだ。言語のもつ「指示表出性」と「自己表出性」が常識的フレームで一致していないことが増えている。これが多義性、多様性の始まりなのだ。「花」、「贈花」ということの「意味するもの」と「意味されるもの」が一義的に一致している場合のことこそを、別の言い方をすればマスマーケティングということになる。
「シニフィエ」の反乱
ナズナやエノコログサやかすみ草を中心にした「花」のことこそが「花」、「贈花」の「意味するもの」であり「意味されるもの」と一致しているという関係は、これまで特殊な変わり物ですまされてきていた。それがニッチを形成し、そのバリエーションが多様に拡張していくことで、マーケットは一様ではなくなってきたことになる。マスマーケティングはいいかえれば言語のもつ「指示表出性」と「自己表出性」が強い絆で一義的に結びつけられていたことが支えていたといっていい。社会関係の中で共通の「指示表出性」から「自己表出性」が分裂、多様化していくことが多様性のマーケティングへの転換の鍵なのである。
つまり言語の「意味するもの」の一般解と「意味されるもの」の多義的な分解をとらえていくことこそが、暮らしの変化の把握だということになる。では、「意味されるもの」の多義的な分解というものをとらえるにはどのようにすればいいのか。それはこれまでも例示したように、実際に具体的に暮らしの中に表象された「贈花」や「ブーケ」の実態をシーンとしてとらえることに尽きる。これがまさに「非言語情報」なのである。言語の「意味されるもの」、「自己表出性」の多様性は、非言語的に捉えるしかないのである。
【ソシュールの言語学※の概念】を私なりに拡大解釈をすると、「意味するもの」、いいかえればシニフィアンから、遠く逸脱と多様化を始めた「意味されるもの」、つまりシニフィエをとらえるためにこそ「非言語情報」へのアプローチが必要なのである。「シニフィエ」が反乱を起こしているのが現代だということができる。「シニフィエ」の反乱は言語ではとらえられない。だから「非言語情報」を丹念にみていく。その観察の中から、ぺんぺん草や猫じゃらしという野草に気づきその中に、実は「花」という新しい「シニフィアン」を発見していくことが、暮らし発想のプロセスだといえる。
※フェルディナン・ド・ソシュールはスイス人の言語学者。ソシュールが指摘したのは、世界ははじめから個別の事物があるのではなく、言葉によって世界の区切り方は異なるという概念。
参考:https://liberal-arts-guide.com/structural-linguistics/
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