非言語情報から仮説をたてる〈17〉
「おはよう」と「好きだ」の意味
「タグ」をつける無意味さ
前回、ご紹介した以下の1枚の写真からどんな情報に気づきがあっただろうか。非言語情報の典型である暮らしのシーンから、どのように価値観の変化を仮説立てていくべきなのだろうか。
ここには言語を使った説明というものはない。ある暮らしの累積がモノを通して表象されているだけである。つまり「沈黙」の世界である。事実としてのモノの集合を言語化していくことはできる。つまり一般的に呼ばれている道具の名前を列挙していくことである。
その名前という言語をタグとしてつけていくことである。ところが、このタグという言語の集積をいくらみても、そこにあるのは「沈黙」である。そこからどんな具体的な時間が流れているのかを考えることが仮説立てということになる。どんな人がどんな生活時間を過ごしていたのかを想像してみることだ。その気づきからようやくそのシーンの中で使われていたであろう言葉の流れを想像することができる。もちろんその言葉の流れは、実際には発語されたものではないだろうし、無意識として流れていったものに過ぎない。
例えばモノや道具の集積をタグとして言語化すればこんなことだろうか。
「窓際」「日射し」「ブーケ」「花びん」「(たとえば)チューリップ」「チェア」「ヨギボー」「ヨガマット」「(たとえば)肩たたき」・・・・。
そんな道具の名称としての「タグ」をつけることができる。ただこの「タグ」と暮らしのあり方とは全く別物である。
「ヨギボー」の価値とは
恐らくこの「タグ」の集積とシーンから、30代あたりの女性の暮らしの一コマを想像されたのではないだろうか。実際、このような具体的なシーンを30代の女性の暮らしからみつけることができる。
ところが、実際にはこの写真は、70代の男性の一人暮らしのシーンである。極論をすれば、30代の子育てママの暮らしの一断面と70代シニアシングル男性の暮らしの組立てが酷似しているのだ。だからといって、「この2つのセグメントの暮らしや価値観が似ているのだ」ということにはできない。
結論めいたことを先に言えば、これに酷似した子育てママのシーンに対して、本人自身のコメントを見ると彼女にとっての「いやし」の場所と時間と説明された。平日休みに保育園に送っていた後の1人の時間の自宅の1人でいる時間。家事を終えたすき間の時間を、この空間の前で過ごすのが一番の「いやし」の時間だということになる。ヨガマットを広げて身体を伸ばしてヨギボーにもたれかかり、ゆっくり呼吸を繰り返すのが、唯一のやすらぎであり「いやし」ということだそうだ。
彼女はヨギボーに触れ、スマホを見ながら、いろいろなことを考えるそうだ。大半は子供のことで反省したりすることが多いという。「あの時はこうすればよかった」とか「ああいう言い方をするんじゃなかった」というように。この時間の過ごし方を、一番楽チンにできるのがこのヨギボーであるそうだ。スマホの時代だからこそ、このヨギボーというものが選ばれているのだろうか。
彼女はこの心地よさに至りつくために、いろいろ試行錯誤した上で、ヨギボーがベストということになったということだ。ヨギボーとスマホは必要不可欠の親和性だということなのだろうか。ヨギボーというモノが持っている「シニフィアン(指すもの)」と「シニフィエ(指されるもの)」の関係、多様性の一端がわかった気がした。
では、続いて70代シングルシニアの男性にとってのヨギボーの持つ「シニフィアン(指すもの)」と「シニフィエ(指されるもの)」の関係について考察しよう。
「花」と「乾燥花」
70代シニアにとってのヨガマットやヨギボーの「シニフィアン(指すもの)」は一体何だろうか。彼にとってのヨギボーは「肩こりと首のイタミをやわらげるための最良の道具」だそうだ。30代ママの「いやし」とはかなり目的は異なっている。つまり「シニフィエ(指されるもの)」は、もっとレベルの異なった「いやし」ということになる。それを具体的に関係づけられる道具として「肩たたき」がある。酷似しているとはいえ、30代ママのシーンには「肩たたき」は欠け落ちているようだ。ところが、男性シニアのシーンの「タグ」に何故か存在することになっているヨガマットについては全く意味はない。「単にそこに置いてあるから」だそうである。
大事なポイントは花である。30代ママの道具立てとしては観葉植物がよく表われている。たとえば、こんな壁にかけられた乾燥花(ドライフラワー)などが代表例である。
ところがシニア男性のこんな場面には彩り豊かな季節の花が存在している。彼の心の奥底を聞いてみて、一つ気づいたことがあった。彼の日常生活の中には、窓際に花が置かれているという暮らしは、自分自身の時間や空間の流れの中には、これまではなかったそうである。妻に先立たれて以降、ふとそんな習慣が芽生えたそうである。元々妻の趣味として花のある暮らしだったそうであるが、それがよみがえったそうだ。
前回にも紹介した短歌の例でいうと、この花は「おはよう」という言葉にならなかった「沈黙」が形になったものだということである。「おはよう」という言葉のなくなった世界にいる彼にとって、この花に目をやることそのものが、無言の中で繰り返されている「沈黙」という「おはよう」という言葉だということになる。ということはこの言葉にすることのなかった「おはよう」という言葉のさらに奥には「好きだ」ということがこめられているといっていい。
30代ママの花の持つ価値が「いやし」であるとするならば、シニアシングル男性にとっての花は、無言の、つまり「沈黙」としての「好きだ」という価値の表象ということになる。シニア男性にとって、花というものは仏花ではなく、「好きだ」という「沈黙」の表象というずいぶん艶めいたものになる。花屋さんの店頭では、こんな言葉以前の世界に気づいているのだろうか。
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