暮らし先読み、後読み予報~生活リズムの予兆を<n=1>からみる(11)~「ハナミズキ」が教えてくれる「生活文脈」~
RF1「サラダベントウ」も断片に過ぎない
この連載も10回を過ぎたので、大きな流れを少し振り返っていこう。基本的なスタンスは暮らしの中のミクロな動きや事象に焦点をあてながら、そこから俯瞰的なインサイトのキーワードを探し当てるということである。
たとえば「生活文脈」という言葉を何度も使っているが、重要なインサイトのキーワードの一つである。
生活の中で繰り返されている具体的なミクロな行動は、一つ一つは断片に過ぎないがそれらが暮らしの連続性の中で、どのように関連づけられているのかということが「生活文脈」ということになる。
たとえば前回紹介した新しい「全体最適」の象徴としてのRF1の「玄米ロール入30品目Saladbento」はその断片の典型である。もちろん、この「食べ方」の断片の中から新しい気づきを多く得ることができる。ただ、もう一つの側面で大切なのは、その「食べ方」が、どのような暮らしの連続線の中で顕在化することになったのかということである。
2人の子供がいる女性が、どうやってRF1のお弁当に至りついたのか。朝からどのような「食べ方」や「飲み方」が累積されてきた結果なのか。そして、さらに重要なのは朝からリモートワークを行い、ママチャリに乗って用事をすませに駅まで行くという行動の流れの中で、RF1に至りついたということになる。
ここでお伝えしたいのは、「生活文脈」を構成する要素としての「生活動線」ということである。
「生活動線」から心理変化をみる
この「生活動線」も、インサイトを探り当てるための一つのモノサシなのである。
「生活動線」とは、物理的には移動の流れということになる。たとえばスーパーマーケットなどの店舗に入ってからレジを通過するまでの間に、どのような場所を移動したかということを「買い物動線」という呼び方をするのと同様である。空間的な移動とそれぞれの空間でどのように時間を費やしたかの累積になる。
その視点でみれば、この女性はリモートワークが思った以上に順調に進んだという心のゆとり、駅までの用事、ママチャリでの移動ということに加えて、春から初夏に近いような青空と日射し、さわやかな風ということがこの「生活動線」には含まれている。初春の青空の下、コインランドリーに行き、その目的の一つである「乾燥」ということの完結によるスッキリ感、そしてパン屋をはしごしたという「生活動線」と同様のことだといっていい。ある意味、エモーションの揺れという変化曲線そのものともいえる。
「ハナミズキ」の白い花
「生活動線」は単なる空間動線の軌跡ではなく、心理的な意味や価値の振れを表わしているものといっていい。だからこそ、この「生活動線」をみることで「生活文脈」を想像、想定していくことが可能なのである。
ママチャリに乗って駅まで行ってRF1に行ったということだけだと、単なる移動手段の接続に過ぎない。ならばその手段をたとえばウーバーイーツに代替させる方が簡便、時短ということにもなる。だがこの「生活文脈」はそうではないことを教えてくれている。
このママはRF1での商品購入のための往復の動線の中で、多彩な刺激を受けているのだ。この間の移動シーンの中での楽しい気づきを彼女は残している。 前回「春風を受けながらハナミズキの並木の下を駅までママチャリで往復」と書いたが、この並木のハズレの家の前でチャリを止めてハナミズキを見上げている。今年もこんな季節がやってきたんだなあと心が動いている。
移動といっても物理的に空間が動いただけではなく、その間に時間的な意味で「ストップ&ゴー」を繰り返している。移動とはいっても単なる直線的な行為ではなく、その間に彼女自身の視聴覚や六感を含めた心理複合がおこなわれているのだ。
モッコウバラと「生活文脈」
次に彼女がチャリを止めてふぅーと息を吐きながらしばらくながめていたモッコウバラ、「これが満開になるとゴールデンウィークが近いな」と思い、「桜が散るとこの黄色がやってくるんだなあ」と季節のスピードを感じとっている。
「そうそう、時々子供たちと行っている公園の藤棚ももう咲いているかしら」と思いついてちょっとだけ寄り道をしてみる。
案の定きれいに咲いていた。これだけの変化を感じとることが彼女の「生活動線」にはあったのである。そしてこの間の気分曲線の変化を含めて、「生活文脈」が成り立っているのだ。この「生活文脈」の中でRF1の「お弁当」の価値が成立している。というよりもさらに盛り上げているといってもいいのだ。
すでに述べたがこのRF1の「お弁当」の持つ意味や価値を、「全体最適」という視点で探索することはできる。それも大切な気づきであることは当然重要だが、もう一つ外側まで広げてみることが「生活文脈」の視点なのである。
これが、暮らしを「積分」するということである。
さらに、「食べる」というシーンは毎日の暮らしの日常の中に頻度高く出現する行動である。だからこそ、一人の中でも多彩で多様なシーンが出現しやすいし、人によっての差異も顕在化しやすいことでもある。今までの連載でも、その一つ一つの「食べる」シーンを、その点だけでとらえずに連続性でとらえることで、そこから探りだせるインサイトをキーワードにしてきた。
前回の男性の「食べる」シーンの連続性から「部分最適」と「全体最適」という視点をみようとした。今回のママの自転車で季節の花を見に行くというランチタイムの行動は、さらにそれを「生活動線」の広がりで見直してみたことになる。
「食べる」ということは、そのシーンの内部だけに視点を当てるのではなく、ハナミズキやモッコウバラなどの視聴覚全体のエモーションからみることで、その気づきを深め広げることができるのだ。
惣菜を買う、惣菜を食べるということは単に時短、簡便ではあっても、その背景には季節や自然と一体となった心の動きがあるという重層性が潜んでいるのだ。
それが「生活文脈」ということの重要な意味なのである。
<n=1>と全体性
この「生活文脈」をとらえるためにこそ、<n=1>という視点と作法が必要だといっていい。一つの行動が起こったことを暮らしの連続線、つまり「生活文脈」として把握するためには、一人の人の暮らしを追跡するしかないのだ。
そのことを私は<n=1>という言い方をしている。
行動の連続性と、それにともなって変化していく心理をセットでみるということが<n=1>なのである。
探索対象、調査対象としてのサンプル数が、一人でいいのかといった条件設定だけのことなのではない。行動の断面を微分化してみていくのではなく、積分化していくことで断片からできうる限りの全体を再現していくことである。
もともと暮らしというものは、全体性として成り立っているものである。しかし、マーケティングにおける定義づけではそれを調査、探索上の都合から、断片、断面を累積させることになってしまいがちだ。
前回紹介したサラダチキン、プロテインバーをランチにしていたシニア男性の夕飯は「鰹のタタキ、鶏と筍の煮物、みそ汁、玄米入り白米」だった。ちょうど旬の筍があり、魚があり、玄米ありということで、典型的な「全体最適」が実現された一食のシーンであった。
その断片と、「部分最適」の食シーン、断片が一人の人の中で共存、重層化されている。これがリアルな暮らしの全体像なのである。この夕飯という断片だけをフォーカスするとバランスのいいシニア男性の夕飯ということになり、サラダチキンやプロテインバーという断片だけに視点を当てると、ヘビーな健康オタクなシニア男性となり、ありがちなペルソナ、セグメントプロフィールに陥ってしまうのだ。
そうならないために、行動の連続性とそれにともなって変化していく心理をセットでみること、すなわち<n=1>による全体を俯瞰する視点が重要なのだ。
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